イチロー選手の最後の試合を見た。
イチロー選手が打席に立つたびに、球場全体の祈るような気持ちが伝わってくる。
彼なら奇跡を起こせるかもしれない、起きてほしい。そんな期待と思い。
でも奇跡は起きなかった。私はそのことに、かえって感動してしまった。
イチローさんは、全力を出し切って現役を退いたのだ。あそこで打てるなら、やめるという選択をしなかっただろう。
余力を残しての引退ではない。ということに、その生きざまを見るようで、涙が止まらなかった。
ヘルメットを脱いだ時の髪の白さにも胸を突かれた。
私は野球には興味はなかったけれど、イチロー選手の最後の試合を見ることができて幸せだった。
その後の引退記者会見に、木村君との共通点を感じた人が多くいたらしい
たぶん、何かを極めようとする人の考え方は、とても似ているのだと思う。
華やかな結果だけを見て、天才だとか、選ばれた人だとか、簡単に言ってしまうけれど、そこには、とても地道な日々の努力、地味な準備、そんなものがとても大きな割合を占めているのだろう。
木村君を長いこと見ていて、結果(数字ではない)を出すことへの、努力と集中力は、まるでアスリートのようだと何度も思った。
きっと彼は、違う場所に立ったとしても、同じようなメンタルをもって何事かをなし遂げる人になったのではないだろうか。
私たちは、素晴らしい結果を見せてくれる人のファンになって、声援を送ったり応援することはできても、支えることなんかできないのだと思う。
だから、○○は私たちが守るだの、支えるだのという言葉を見るたびに、違和感を感じてしまう。
一連の騒動の中で、私の中で一番変わったのが、これかもしれない。
木村拓哉という人は、ファンが支えなくては立っていられないような人ではない。
自分の実力で今の立ち位置を獲得し、そして志を同じくする仲間に支えられている。ファンにできることは、受け取ってくださいと差し出された作品を受け取ることだけだと今は思っている。