石を投げる前に

ほぼ日の今日のダーリンで、「あなたたちのうちで、罪のないものがまずこの女に石をなげなさい」という聖書の言葉を引用して語っていることに大きくうなずいた
この言葉は、姦淫を犯した女に石を投げる群衆に向っ、てイエスがなげかけた言葉で、、誰しも罪を持っている人間が人を裁けるのかと問いかけた言葉だと私は思っている

その言葉を引用したうえで、「人を裁くことはいつだって重いことのはずだ」「ただ裁くことの重さや怖さを気づきにくい場面では、人はいくらでも、へっちゃらで裁いたりするものだ。近くの友人と、気楽な仲間と、裁いても痛くもかゆくもなさそうに見える人を、常識やら正義やらの名のもと裁きまくっている」
「この無責任な密室の遊戯が、あっという間に、大勢の見える場所に流れていってしまうのが、今の時代のこれまでにない恐ろしさだ」「ソシアルネットワークはものすごい速度で「人気者」を作り出し、さらにものすごい速度で「気にくわない人間」の人生を、取り返しのつかないものにしてしまう」(1.21今日のダーリンより抜粋)

本当に、その通りだと思う
一昔前、井戸端会議での、ご近所のうわさや陰口はちょっとした日常のストレス解消になっていたけれど、その井戸端会議がSNSに舞台を変えたために、無責任なうわさ話や陰口が、あっと言う間に大勢の人の目に触れるようになった。
そしてそれが、正しくないことへの批判だったりすると、その正義の御旗のもとに大勢の声が集まり、正義だったはずのものが暴力になったりする
悪い(と思っている)ものなら叩きのめしてもいいのか、という疑問がどこからも聞こえなくなったら、とても怖いことだ。
厄介なことに、人を叩きのめして喜ぶ人たちもいるらしい。気に入らない人を作り上げ、煽り、その様を見て喜ぶ。
どこぞの解散劇で、そんなものをいっぱい目にしたっけ(笑)
糸井さんは、もしかしたら、先日の文春の記事と、その記事で一人の方が表舞台から去ったことを、念頭に置いてこれを書かれたのかもしれない
でもいろいろなところで同じようなことが起きている。
決して自分だけは関係ないと言ってすまされることではないと思った。
私もとりあえず、自分がネットにのせる言葉は、仲間内で納めておくべき言葉かどうか、まずは考えようと思う


「かつての「東スポだろ?」みたいな共通理解が欲しいよな」
文章の最後に書かれていたこの言葉にも、笑いながらうなづいた
昔から、怪しげで、信ぴょう性のない記事ばかりを書くメディアはあったのだ。でも、読むほうも、眉唾物と承知の上で読んでいた気がする
ネットの記事なんてまさにそうで、見る側もそのつもりで読んだほうがいいと思う。