万次とキムタク

風邪をひいた
一晩ぐっすり眠れば、けろっと直ったあの頃が懐かしい(笑)
だいぶ良くなったものの、しつこい咳が残ってしまって、しばらく映画を見に行けそうもない。
映画館の中で、ゴホゴホするわけにはいかないものね。
無限の住人は、どうしても見たくなる映画だ。
実を言えば、ファンとして義務のように見に行っていた映画もあるが(笑)
これは、正真正銘、見に行きたい映画だ。

公開以来いろいろな方の感想を読ませていただいて、キムタクの汚いおっさんがかっこいいとか、キムタクが万次になり切っていて驚いたとか、
そうだろう、そうだろう、とほくそ笑みながら、世間のキムタクというイメージの強さに驚いたりしている

一体世間でいうキムタクって何なんだろう
木村君の活動と言えば、一年に一度のドラマ、数年に一度あるかないかの映画、そのほかはグループとしての活動だった。
映画は、わざわざお金を出して足を運ばなければならないことを考えると、世間のキムタクというイメージはTVの中で作られていると考えていいと思う
木村君の長い芸能生活の中で、いわゆるキムタクブームと言われていた時代に見たイメージが固定してしまって、そのままという人たちもたくさんいると思うし、
長いこと続いていた冠番組の中のイメージがそのまま木村拓哉の人物像になっていた人もいると思う。

キムタクは、かっこよくて、決めるときには決めて、スーパーヒーローで・・・・・いつの間にかそんなイメージが世間に固定していった
それは、意外と意図的に作られたイメージだということを長年見ているとわかったりしてきた
つまり、木村ならやれる!木村ならここで外さない!木村なら・・・・とグループの中で要求されるものを、彼はやらざるを得なくなっていたという面もあったのではと今では思っている。
それが悪いというのではなくて、ある時期まで、それは信頼関係の中でそういう流れになっていったのだと思っている
ドラマにしてもそういう面はあって、まず主演木村拓哉ありきの、無理のある設定のドラマがないとは言えなかった
でも、そもそも要求されてもできなければ、成り立たないことで、それができてしまうこと、無理な設定さえ成り立たせてしまってきたことが、実は木村拓哉のスター性を証明し、キムタク=ヒーローを印象付けてしまった
私は、誤解を恐れずに言えば、木村拓哉は、スマップにいたからこそ、良くも悪くも、キムタクになったと思っている。
それは良くも悪くもであって、強烈なイメージを植え付ける反面、そこからなかなか抜け出せないということにもなる。
一部の人には、強烈なイメージゆえに、人であることさえ忘れられ人格を無視されるような扱いを受けたりもする


そんなキムタクの演じる万次、泥にまみれ、血反吐をはき、切られて切られてズタボロになる。それでも無様に立ち上がり、獣の様に咆え、戦いに身を投じる
その姿はおおよその人のキムタクのイメージを裏切るものであったに違いない。
かっこいい役しかできないキムタク、どうせキムタクをきれいに撮ろうとしてるんだろう、そんなイメージを持った人に
万次はキムタクのイメージを裏切ったうえで、さすがキムタクと言わせているのだ
皮肉なことに、いくらキムタクのイメージを崩そうが、さすがキムタクと言われる(笑)
もうスゲーなキムタクとしか言いようがない。
ファンとして、もういい加減、木村拓哉をキムタクのイメージから解放してやってほしいと、常々思っていたけど
もうこれはしょうがないのかもしれない
ある時は、どうせキムタク、ある時はやっぱりキムタク、ある時はさすがキムタク、
どうせであっても、さすがであっても、キムタクという4文字は消えないのだ。

そういう逃れられない運命的なものをせおうものとして、三池監督が、万次に木村拓哉を重ね合わせたのもうなづける気がする
万次の常人にはない感覚を体感した人間がいるとしたら、それは木村拓哉だろうと思ったのだろう。
そういう意味ではすごいキャスティングだなと思う
万次は木村拓哉しか演じられなかったかどうかはわからないけれど、木村拓哉の演じる万次は最高にいい
たった一つ見つけた生きる意味、凛を守るため、壮絶な戦いに身を投じる万次
死ねることは万次にとってたった一つの希望のはずなのに、凛のために今は死ねないと、切られても切られても立ち上がる万次
そのすさまじい生きざまを、木村拓哉は確かに演じて見せてくれた。
演じる人間が何者かなど、思い出す余地もないほど万次であった。

木村拓哉は、これから当たり前に年をとり、できないこともいっぱい出てくるけれど、たぶんその年なりのヒーロー像を見せてくれるに違いない
人の望むヒーローでいる必要はない
そういうものをぶち壊しながら、進化するキムタクでいてほしいと思っている
早く映画を見に行きたい!