切り抜きの整理をしていて、太田さんの記事が目に留まった。
「太田光のしごとのはなし」というコラムの中の、スターのはなしという記事。
太田さんが考えるスターとは、つまるところ「許されるかどうか」だという。
松田優作にしても、ジェームスディーンにしても、しぐさや演技にストレンジな違和感を感じるけれど、その奇妙な違和感をかっこいいと感じさせ、○○だから許されるというポジションまで上り詰めたのがスターだと。
その点からいくとその位置に上り詰めたのは、最近では木村拓哉。
芝居でも、彼よりうまい役者はいるけれど、ストレンジな違和感を魅力的に見せ、かつ歌でも芝居でも、全体の流れを壊すことなくそれを見せ、マニアックには振り切らず、絶妙な匙加減で大衆に支持される。
それこそが木村拓哉の魅力だと。
すごくわかる気がする。
私が木村君にはまって、真っ先に夢中になったのが、コンサートビデオだった。
ドリスマのDVDを自分で買うまで、ひたすら近所のビデオ屋さんでコンサートビデオを借りた。見たこともない若い頃のビデオでも、顔がわからなくても、すぐ木村君を見つけることができた。
それほど彼のダンスも動きも独特だったから。
その、どうしても目を引いてしまう違和感に、気が付くと夢中になっていた。
本人が意図したしないにかかわらず、そうやって目を引いてしまうことは、グループの一員としては何かと風当たりが強くなるのもわかるし、かといってグループの中に埋没してしまうには存在が大きすぎた。
色々考えると、やっぱり木村君はいずれは一人でやっていく人だったんだと思う。
そして、一人違うということは、旧マネジメントでは許されないことだったんだなと思う。
その感覚は、他メンバーの間にも、他メンバーのファンの間にも根強くあったような気がする。
○○だから許されるスター性は、グループの中ではいかせない。
今にして思えば、あの解散はメンバーだれにも必要だったんじゃないのかと思う。