ぴあ

ぴあはインタビュアーが相田冬二さん。
この人の文章は私にはわかりにくい(笑)
同じ感性を持っている人には、そうそう!とドンピシャなのかもしれないけれど、私は読んでいるうちに迷路に迷い込んでしまう(笑)

相田さんが、万次を演じる木村拓哉を見てい抱いた、いったい彼はだれのためにその精神と体をささげているのだろうという思い。
精神と身をささげるとはたいそうな言葉だなと思うけれど
それほど、万次を演じる木村拓哉は、壮絶なまでに自分の身を投げ出し、その撮影に臨んでいたのだろう
それは見ているものには、献身とか身を捧げるとか、そんな風にさえ見えたのだろうか。
およそ、木村君を見ていて、感じない献身とか、身を捧げるとかいう言葉に違和感を感じたけれど
ふと、その言葉が腑に落ちた

彼は、自分のためではなく求めてくれる人のために演じているという。
彼がいつも言う自分は求めてもらって存在できるという言葉からも、求めてくれる人の期待に最大限こたえようとする姿勢が分かる。
相田さんの言う献身とは、自分の全身全霊を作品の前に投げ出す覚悟なのだと思うと、とても納得がいく。
それはすがすがしいまでの無私。
犠牲というのとは違う。犠牲というのはどこまでも、「私」ありきの言葉だと思う。
それは犠牲なっている自分に陶酔している言葉だから。
それとは違う、作品に身も心もすべて投げ出す覚悟ということを献身というのなら、それはその通りなんだろうと納得がいった。

そうやって全身全霊を投げ出して演じた万次に対する木村君のとらえ方も、とても興味深かった。
万次は不死という体を自ら選んだわけではなく、八百比久尼によって否応なくもたらされたもの。
たくさんの人を殺めたことに対して、死んで詫びるのではなく生きて詫びろという、言ってみれば無限の罰ともいえる。
その無限の人生は凛という存在に出会わなければ何の意味もない・・・
なるほど、と原作を途中で挫折してしまった私の疑問がやっと溶けた。
なぜ、万次は凛のためにあそこまで壮絶な戦いを続けるのか、いまいちわからなかったから(笑)
凛の存在を感じながら演じたという言葉が、とても深い意味があったのだとやっとわかった気がする
インタビューや、レポを見るたびに、無限の住人への期待が高まってくる。

海老蔵さんとのエピソードもすごい。何も語らずスタンバイする二人の硬質な色気・・・・
あ〜見たい!!そこら辺の石ころになってでも見たい風景だな
どうかこの二人が、がっちり手を組んで演じる時代劇を、だれかいつか見せてくださいと祈ってしまった(笑)